生きているって、すごいことなんだねぇ
これまで、自分は「理想の自分」に近づこうと行動してきたつもりだった。
けれど、気づけば周囲を傷つけたり、呆れさせたりするような人間になっていた。
自分の発する暴言は悔しさから生まれる。
その悔しさは「自分が正しい」という思い込みからきている。
また、自慢は自信のなさや自己肯定感の低さの裏返しだ。
自然の中で瞑想をしたとき、ようやく悟った。
行動の根底にあるのは「立場をおびやかされる不安」だった。
自分は、
- 誰に対しても優しい
- 強くて頼もしい
- ブレない芯を持っている
そんな人になりたかった。けれど、現実の自分はまだまだ遠い。
どれだけ努力しても、実績や行動が伴わなければ自分を良く知る周囲には見透かされる。
そもそも、
「こうありたい」と思うこと自体が自分本位で、しかも評価を他人に委ねている。
だから承認欲求に振り回され、周囲を呆れさせてしまう。
「自分のことを好きだと思えるのはどんな時だろう?」と考えてみた。
それは、人に頼られた時、人の役に立てた時、人に感謝された時…
自分を好きと思える瞬間には必ず“他人の存在”があった。
ただ一つ、例外がある。
それは山に登るとき。
単独で山行を計画し、最後までやり遂げたとき、言葉にならない達成感と自己効力感に包まれる。
自分にとって山は、自分を高めるための修行の場だと思った。
最近山に行けていないけれど、時間を作って行ってこようと思う。
自分で自分の事を好きだと思えなければ、健全に人を愛する事なんてできない。

この前に買った『とわの庭』という小説を読んだ。
最初は「盲目の娘と、愛にあふれた母親の物語」だと思っていた。
だが、読み進めるうちに空気が不穏に変わっていく。
母親は夜に娘に”ネムリヒメグスリ”を飲ませ、自分は外で働く。
金銭面や体力面の余裕の無さから次第にDVが増えていく。
それでも“とわ”は母を慕い、暴力の後に後悔する母を慰める。
その健気な描写に胸を打たれた。
ある日の夜、「ネムリヒメグスリ」を多めに飲まされた翌日、母は失踪する。
食べ物は尽き、幼い“とわ”は飢えをしのぐために消しゴムまで口にした。
最後は勇気を振り絞って外に出たところを保護される。
そして後に知る。
母は既に二人の子を産んで遺棄しており、“とわ”は無戸籍だったことを。
それでも、“とわ”は母を嫌いになれなかった。結末はどうであれ、小さい頃に受けた愛情は本物だったからだ。
施設で前向きに自立をしていく姿にも強さと健気さを感じた。
惨めで過酷な現実の中でも、”とわ”には「ありのままを受け入れる強さ」と「揺るがぬ愛」があった。
“とわ”を通して学んだのは、
愛は理屈ではないということと、愛という感情に”自分”は存在しないということ。
支配や嫉妬といった自分本位の感情を手放したとき本当の愛が残る。
自分自身の過去を振り返ってみると、本当に人を愛せていただろうかと疑問に思った。
“とわ”のように現実を受け入れる強さを持てていただろうか。
自分が愛だと思っていたものは、ただの依存に過ぎなかったのではないか。
”とわ”のような健気さは自分には無かった。
偽物の愛は必ず綻ぶ。それは当然の結果で、悔やむことではない。
“とわ”のように強くなりたい。
今までの経験を糧に自分が思い描く理想の自分に近づきたい。
そう思った。
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